創価学会の問題点と批判点

「世界最高の仏法」を標榜している創価学会だが、

その内容はと見てみれば、本来の仏教から大きく逸脱している事が見て取れる。

そして、その組織のあり方や活動内容などにおいても世間や社会に不安や害悪を流し続けているという事実が観察され続けている。

このページでは、本来の仏教の観点に立って創価学会の問題点を考察してゆくと共に、

創価学会が主張している「正しさ」がすでに崩壊している事実を述べて創価学会の批判点を考察していきたい。

 

1⃣【思想面】

①「世界最高の仏法」の根拠が崩壊している創価学会

創価学会は日蓮を本仏として崇め、その日蓮が「釈尊が説いた諸経の中で最高に正しい経典」と定めた法華経を所依の経典とし、法華経や日蓮仏法を信心しなければ謗法の罪で地獄に堕ちると主張して勢力拡大してきたが、

そもそも、その日蓮が最高の法とした法華経は近代の仏教学によって、

仏教の開祖・釈尊が説いたものではなく、

釈尊滅後500年以後に起きた大乗仏教運動の中で、

後世の人々によって作られた諸大乗経典の中の1つである事が判明しているのである。

よって、法華経は釈尊の「出世の本懐」の正法でも何でもない、

後世の創作経典でしかないのであり、

故にそのような法華経を信じなかったからといって謗法の罪で地獄に堕ちる事もないし、法華経を信じたからといって絶対的幸福境涯が保証される訳でもないのは言うまでもない事であり、

その法華経を基にして自説を立てた日蓮の思想も「末法の正法」ではなく、

それを信じなかったからといって謗法の罪にもならない事は言うまでもない事である。

このように、今では法華経と日蓮仏法の正しさの根拠はすでに崩壊しているのであり、

その法華経と日蓮仏法を基にしている創価学会の正しさの根拠もすでに崩壊しているのである。

 

 

 

②創価学会には中道がない

仏教の基本思想は「中道」にある。

中道とは苦楽の両極端から離れた不偏にして中正なる生き方の事で、

快楽主義と苦行主義との偏った生活態度を離れ、

それによって智慧を完成して涅槃の悟りを得るという思想をいう。

原始仏典の阿含経には、その中道について次のような記述がある。

足から血を流すほどの過度の修行を続けても悟りの境地に至れないでいた弟子のソーナに釈尊は、琴の弦は、締め過ぎても緩め過ぎても良い音は出ない、

程よく締められてこそ良い音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと諭し、

ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至ったという。

つまり、言い換えれば、中道とは程良いバランスの事なのである。

極端な安逸と苦行に偏らず、程良いバランスを保った生き方をしてゆく事が

最も心身共に安定した状態であるからこそ、仏教の説く「苦の克服」ができるのであり、悟りと解脱の境地へと至れるのだ。

ところが、創価学会にはこの仏教の基本である中道というものがなく、極端な苦行に偏っている。

例えば唱題行にしても何百万遍も何時間も題目を唱えなければ宿命転換できないなどと幹部から指導されて、家事も放ったまま題目ばかり唱えたりとか、

仕事も家庭も生活も犠牲にして多忙で過酷な学会活動に没頭させられるという実態になっており、明らかに「苦行」と言えるものである。

 

創価学会では折伏戦や公明党支援の選挙戦など、

組織活動が中心に据えられており、一般会員はその組織の駒のように

組織の都合に合わせて動かされ使役される。

その際、その活動は極端に偏っていて、特に青年部の場合、

選挙活動の為に信者は各人の仕事も休んで選挙活動に参加するよう強要されたりするが、これなどは「信者の為に宗教がある」のではなく、「宗教(宗教組織)の為に信者がある」という本末転倒の組織構造となっているからであり、

宗教組織の為に信者が犠牲になるという苦行を強いられているのである。

特に男子部の活動家の中には、学会活動(特に公明党支援の選挙戦)に没頭する余り、仕事を連続して休んだ為に勤務先から解雇される者も多く、

学会活動の為にどれだけ仕事を変わったかという事を自慢する活動家もいたものであった。

しかし、このようなものは本来の仏教が説く「中道」の姿ではなく、

極端に偏った苦行でしかないのである。

中道から外れた極端な苦行に生きても、そこに調和はなく、破綻するしかないのだ。

その上、学会活動は成果主義となっていて、

特に活動家と呼ばれる学会員は成果を上げなければ上の幹部から責任を追及され吊るし上げられ罵倒される。

これによって心に傷を負い、ノイローゼや鬱病になったりする会員も多い。

また、創価学会には盲信者・狂信者が多いが、

それは中道から外れてバランスを崩し極端に偏っている為、

盲信・狂信に陥りやすくなるからである。

かつて創価学会は布教する時は「この信心は釈迦仏教の煩雑な歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)と違って、

本尊に題目を唱えるという簡単な修行法だけで宿命転換して即身成仏でき、

崩れない絶対的幸福境涯になれる」などと宣伝して信者を増やしていたが、

実際にはその簡単だという学会活動などは学会組織の為に自分の生活も家庭も犠牲にするという苦行そのものでしかないのである。

これは仏教の説く中道ではない。故に創価学会は仏教ではないのだ。

 

 

③執着から解脱している仏は本尊には宿らない

創価学会は、宇宙の根源の妙法である南無妙法蓮華経を体得した本仏・日蓮の生命を文字に顕わしたものが本尊であり、

その本尊を信じ、読経し、題目を唱えていくと、本尊に共鳴して、

南無妙法蓮華経が各人の生命に体現し、本来、各人に内在している仏界という最高の生命が湧き現われて、何でも願いが叶い、絶対的幸福境涯になるのだと説明している。

つまり創価学会の本尊には日蓮の仏の生命が宿っているというのだ。

そしてその本尊に題目を唱えれば宇宙の生命と感応して自身にも仏の生命が現われ、何でも願いが叶って幸福になれるというのだ。

かつて戸田城聖2代目会長は本尊を「幸福製造機」だと言っていたものだが、

しかし、本来の仏教の理論からすれば、創価学会のこの理論はあり得ない話なのだ。

そもそも、本来の仏教が説く仏の定義と創価学会の仏の定義とは全く違う。

本来の仏教では、俗世のあらゆる執着から離れて解脱の境地に至った人物を仏と定義している。

仏とは、あらゆる執着から離れている存在なのだから、

創価学会が言うような、人間が造った曼陀羅本尊に仏の生命が宿る事などあり得ないし、その本尊には仏などいないのだから、いくら題目を唱えようと祈ろうと、功徳というものが現われる訳もないのである。

もし本当に曼陀羅本尊に日蓮の生命とやらが宿っているのだとすれば、

それは未だにこの世への執着から離れられない生命という事になり、

スピリチュアル風に言えば地縛霊か憑依霊の類という事になる。

また、本尊に題目を唱える事で宇宙根源の法と合致して自身に内在している仏界が湧き現われて絶対的幸福境涯になるという理論は、

仏教ではなく、バラモン教やヒンズー教で、

宇宙の法である「梵(ブラフマン)」と個人の生命である「我(アートマン)」の合致を説く「梵我一如」の思想と同じようなものである。

「世界最高の仏教」を自称しながら、その思想は仏教ではないのだ。

故に創価学会は仏教ではないのである。

 

 

④「謗法厳誡」を免罪符にする創価学会

創価学会の特徴』のページの中の
「⑤敵対者や批判者への罵詈雑言・罵倒」でも考察しているが、
創価学会の仏教者とは思えないような罵詈雑言や罵倒の言葉遣いは、
実態が宗教を利用したビジネス、営利企業の創価学会の事だから、
仏教の業思想などは信じていないのだとも言えるが、
もう1つ考えられるのは、創価学会は「謗法厳誡」を免罪符にしているという事だ。


創価学会は日蓮仏法を信奉しており、
その日蓮が主張していた「謗法厳誡」を最重要視しているのだが、
謗法を犯さず、謗法厳誡を守ってさえいれば、
他のどんな罪を犯したとしても許されると考えているのではないかという事だ。


だから敵対者にどんな下品で汚い言葉を吐こうが、
どんな毒のある罵詈雑言を吐こうが、
日蓮の説いた謗法厳誡をしっかり守っている限り、
罪を許されると考えているのではないかという事なのだ。


創価学会の中枢部がどこまで「謗法」という思想を信じているか、
それとも信じていないがあくまでもビジネスとして信じているフリをしているのかは判らないが、
いずれにしても、謗法厳誡を守ってさえいればどんな罵詈雑言を吐こうが、
どんな悪辣な事をしようが許されるなどという思想は本来の仏教にはないという事だ。

⑤信仰・信心をビジネスに利用している創価学会

創価学会の特徴』のページでも述べたように、

創価学会では、折伏数の成果を上げる事や

選挙戦で公明党の外部支持票を獲得する事、

更には聖教新聞の販売売上数を上げるなど、

創価学会の利益になるような事を「信心」という名目で信者に行なわせ、

それらの活動で成果を出し、手柄を立てる事を信心の証であるかのように指導しているが、それは結局、創価学会に利益をもたらす事に他ならない。

つまり創価学会の言う「信心」とは、

創価学会が利益を得る為のビジネス・商売である事が判る。

本来、信仰や信心とは、

苦しみ多い人生を生きる為の

心を支える杖なのであるが、

創価学会はその信仰心・信心をうまく自分達の商売に結びつけている訳だ。

信者の信仰心をその教団の利益に結びつけるという手法は

創価学会に限らず、カルトと呼ばれている団体に共通して見られるものであり、

その点からも創価学会はカルトの特徴を充分に満していると言える。

このような創価学会の「信心」なるものは、

純粋な信仰心を歪ませて商売に利用している悪質な手法だと断定できよう。

 

 

 

2⃣【実践面】

①信者の闘争心を煽る創価学会は仏教ではない

表向きには「反戦・平和」を掲げている創価学会だが

内部の会員に向かっては「仏法は勝負なり!」「闘争する事が仏法だ!」「勝って勝って勝ちまくれ!」「折伏闘争」「題目闘争」などと「勝負」「闘争」「戦い」を強調して指導している。

そのような信者の闘争心を煽るような創価学会は仏教ではない。

仏教の開祖・釈尊は「勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。
勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す」(中村元・訳)

と勝負を捨て闘争を捨ててこそ安らぎの境地があると説いている。

これが仏教の基本思想なのだ。多くの伝統仏教は釈尊時代の仏教とは大きく変化してしまっているが、それでもこの釈尊の教えはその底流に流れている。だから日本の現代仏教も仏教だと言えるのだ。

しかし「闘争」だとか「戦え」などと闘争心を煽る創価学会は仏教ではない。

仏教の基本思想が欠落しているから仏教とは言えないのは当然だ。

 

 

②学会活動は本来、創価学会職員が為すべき行である

創価学会では、過去世の悪業を宿命転換して福運を積む為と称して、

信者に布教としての折伏行を行なわせ、

機関紙の聖教新聞啓蒙と称する販売拡張セールスや、

その聖教新聞の配達・集金業務、

更には選挙戦での公明党の外部支持票(F票)獲得等々、

様々な活動に参加するよう強要しているが、

本来、そのような活動は信者の学会員ではなく、

創価学会運営側の創価学会上層部及び本部職員が行なうべきものなのである。

それは本来の仏教教団のあり方を見れば判る事だが、

仏教では釈尊時代から、解脱の為の修行も、衆生に説法する布教伝道にしても、

それらはプロの宗教家と言える出家者が行なっていたのである。

つまり、修行や布教伝道などの諸活動はプロの宗教家たる出家者の使命であり務めであったのだ。

一般在家者はその出家者の説法を聞いて日々の生活の指針とし、

解脱の為の修行ができない代わりに功徳善根を積む為と、

尊敬の気持ちを込めて出家者に食べ物などの布施(供養)を行なっていたのである。

つまり、本来、プロの宗教家としての出家者は解脱のための修行を実践し、

世俗の欲への執着から離れて少欲知足の清貧の生活をし、

一般在家者に生きる指針としての説法を行なっていたからこそ

在家者から布施(供養)を受ける資格があったのだ。

この出家者と信者の関係は、仏教に限らず、

キリスト教など他の宗教にも見られるものである。

 

確かに創価学会は在家の仏教団体であり、

運営側の名誉会長や会長など職業幹部達も出家者ではない在家者ではあるが、

しかし、たとえ出家者ではない在家者であっても創価学会の職業幹部達は

一般会員からの寄付(「財務」など)や機関紙誌を始めとする関連企業による収益によって生活をし、

一般会員に対して信心活動について指導教導をしている立場なのだから、ただの一般在家者ではなく、プロの宗教家の立場だと言って良い。

そのようなプロの宗教家であり職業幹部である創価学会上層部及び本部職員達なのだから、本来、出家者が行なうべき務めをこれら職業幹部達が行わなければならないのである。

つまり布教伝道としての折伏行も聖教新聞の配達・集金業務も、

更には公明党の支持票集めや選挙活動も、

信者ではなく、職業幹部の職員達の務めであり使命だと言って良い。

職業幹部達はそれらの活動を行なってこそ、

信者である一般会員から寄付を受ける資格があるのだ。

ところが創価学会では、プロの宗教家がただ号令を掛けてるだけで、

折伏による布教伝道も、機関紙などのセールスや配達・集金業務も、

信心とは関係ない選挙活動までも信者である一般会員にタダで、またはタダ同然の低賃金で行わせているのだ。

しかも、プロの宗教家たる職業幹部の学会上層部の大幹部達は、

数年前まで公表されていた高額納税者番付でも明らかになったように、

高額納税者として名を連ねていたほどの資産家なのである。

プロの宗教家でありながら、宗教家として清貧の生活をするどころか、

信者から強引に集めた寄付金によって、資産家になっているのだ。

正にプロの宗教家と一般信者の立場が本末転倒しているのが創価学会だと言えよう。

この点から見ても、創価学会はまともな宗教団体ではないという事が判るだろう。

 

 

③高額な寄付を無理強いする創価学会

今や創価学会の集金活動として有名な「財務」。

内部においては「財務の戦い」と称しているだけに、

創価学会がいかに寄付金集めに必死であるかが判るというものだ。

何しろ、「財務」の時期になると

聖教新聞には「供養」する事への功徳がいかに大きいかという記事が必ず掲載され、

会合での幹部指導においても、会員宅への家庭指導においても、

「財務に出せば出すほど何倍にもなって功徳が返ってくる」などという信者の欲を煽るような指導や、

「財務に無理して高額寄付をしたおかげで大功徳を得られた」などという体験発表まで行なわれ、

更には「財務に出し惜しみすると悪い事が起きる」などと脅しの指導までしてきて、

高額な寄付を求めてくるのである。

創価学会は「財務」を「ご供養の精神で行なうように」などと会員に指導しているから、単なる寄付ではなく、仏教的な「布施」という意味合いで行なっているのだと思うが、

仏教的な布施であるなら、なおさら、金額は信者に任せるべきものであり、高額寄付を煽るべきものではないのだ。

しかも、財務は一口1万円と最低金額まで決めているのである。「ご供養の精神で」と言っていながら、寄付金の金額を決めているのだ。

本来の仏教による中道に立って考えるなら、

布施というのは決して無理をする事なく、自分のできる範囲での分相応な金額で良いのである。

布施は少しでも惜しむ気持ちがあったら仏教の基本である「自我への執着、財物への執着を断ち切る」という考え方に反する事になり、無駄になるからである。

だから「財務」には惜しむ気持ちが湧かない程度の無理しない金額で良いのだ。

勿論、一口1万円というのも創価学会が勝手に決めている事だから、

絶対1万円寄付しなければならないというものではない。

寄付する寄付しないは信者側の心次第なのだ。

寄付しなかったからといって訴えられる事もないのは言うまでもない。

そして創価学会は、本来プロの宗教家である職業幹部達が行なうべき事に

信者を無理強いしてこき使っているのだから、

もはや布施や寄付をするに値しない団体であると言える。

そのような団体には寄付したくなければ寄付する必要はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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